きがくるわないようにする

読んだこと見たこと考えたこと

楽をしたい、というのは限られた条件下の欲望だと思う。

そうじゃなかったら、努力をしてしまったほうが楽だ。

少なくとも前に進んでいるような、ポジティブな気持ちにはなれる。何かまだ余地がある、変えられる、と感じることにかなり気分は左右される。模様替えしかり。

実際には自分は変わらない。だけど、努力をしてしまうことはいつだってできる。

 

それも、「心地良い努力」をすること。

無理に大きな目標を掲げない。

短期的に快感を得られる実験的サイクルを複数回すこと。

 人間にとって、完全な休息の中にいながら、情念もなく、仕事もなく、気晴らしもなく、神経を集中させることもない状態ほど耐え難いことはない パスカル 

小山田二郎展がすごい

 

地味に素敵なキュレーションで知られる府中市美術館で、また最高な展示を見た。

小山田二郎展。

 

最初に彼の作品を見たのは、何かの企画展の時に小部屋に展示されていたものだった。ゆめにっきに出てくるような鳥女の異様な絵に、すぐにノックアウトされて検索したりもしたけれど、画集も出ていないようであまり詳しいことはわからなかった。

小さな部屋に八枚くらいの展示だったけれど、その少し暗い部屋の感じと共にとても印象に残っている。

それが、企画展。

全部小山田二郎

しかも会期中、大幅な入れ替えをして二期にて実施。

すごい。府中市美術館。

 

ひっかき傷のような荒々しい線のある、神経症的な画面はフランシス・ベーコンを思わせる。

一方で幻想的な生き物がたくさん出てきたりする絵はどこかコミカルでもある。

迫力があるのに、力が抜けている。鑑賞者にぶつかってくる異様さはあるのに、「これでどうだ」的な感じがしない。

たぶん、幻想系の海外の画家の影響とかもあるのだろうけれど、図録でも特に解説等されておらず、なんだかぽつんと彼一人の作品が投げ出されているような印象を受ける。

 

今回、作者の経歴を初めて知った。

彼は中年の時期に、娘と妻を残して出奔している。老年期のキャプションは、彼が新しい家族を得てそれを大事にしていた旨が書かれていたけれど、唐突に父の消えた家庭で、娘や妻は何を思っていたんだろう。

「新しい家族と穏やかな時間」を過ごせてよかったね、とはとても思えない。

ごろりと投げ出された不快感。

細かな点は語られていないから、文脈がよくわからない。

ただ投げ出されてそこにある。

本当にそれを選んだのか(『職業としてのAV女優』)

 

AVは人気職業になった、という点からその仕事の現状や苛酷さを説明している新書。

アドラーの後にこの本を読むと、なかなかうんざりしてくる。
これこそあきらかに意志の結果ではなく、背景にあるのはどう考えても貧困である。

AV女優が人気職業になり、容姿のレベルも上がっているという。そうせざるをえない現実。
これは、単身の未婚女性の多くが非正規雇用であり、まともに食べていけないという現実の反映であるのだろう。

だが、ならばアドラーの考え方は誤っているだろうか。

もし一人ひとりのライフヒストリーを聞き取ったとしたら、「これは自分の選択の結果だ」という物語が聞けるに違いない。
個人の認識はそのように過去のやむを得ない選択を語り直す。

マスで見た時、その選択は社会状況の反映である。
昔は誰もがお見合いをして結婚した。
今は結婚しない人も多い。それは明らかに様々な社会状況によって作られた選択なのだが、個人のライフヒストリー上では、自身の選択に帰せられる。

だから、未婚女性たちは「タラレバ」の想像に陥る。(東村アキコ『東京タラレバ娘』)

知識があることや、発信者側に回ることのメリットは、人をマスで見ることができるということだ。
結婚したいけれどできない女性がいたとして、それは社会的なライフスタイルの変化、収入、仕事、本人の資質、色んなことが複合してそのようになっている。

だけど、他ならない私自身は一人である。
自分の人生の物語を、無数のものの一つとして客観視することはたぶん、不可能だ。

だから、自分が辛くならない程度に時にマスにカメラを引きつつ、「この私」を生きていくしかない。

 

 

職業としてのAV女優 (幻冬舎新書)

職業としてのAV女優 (幻冬舎新書)

 

 

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)

 

 

選べると選べないの間(『アドラー 人生を生き抜く心理学 』)

アドラーの思想は、おおまかに言えば目的論である。

あの人のルーズな性格が嫌だから付き合わなかった、のではなく、
付き合いたくなかった→だからルーズな性格だという理由をあとから付けた、と考える。


この考え方のいいところは、人間の意志を最大限評価しているところだろう。
人は自分が自分の意志で行動でき、道を選べるという感覚を持っている時、幸福を感じるという。
意に沿わないことをしてきたが、それはもともと自分が意志をしてきた結果なのだ、という認識は、自己啓発的なやる気に繋がる。

実際、例えば「海外旅行に行くことが羨ましい」と言いながらも、行けばいいのにと言っても行かない人がいたりする。その人は、本当は面倒やお金のことを考えたら、「そこまで行きたくない」と考えているわけだったりする。
この考え方で解決できる場面は多いし、「幸福な人生」というものを考える上で非常に示唆的であると思う。
どのような振る舞いができるのか、ではなく「どうしたいのか」から考える。
人生は、選べる。


ただし、意志に沿わない行動というのは有りないのか?という素朴な疑問は残る。また、意志と言っても一枚岩ではないはずで、あまりに単純な考え方にも思える。
結局のところ人に意志なんてないのでは、という気もする。


選べると、そもそも意志なんてない、の間ぐらい。
たとえば旅行に行くことは選べる。

だけど、人を好きになることは「好きになりたかった」意志の結果とは限らない。それらも結局は、ライフヒストリーに回収されるのだとしても、選べると選べないの間を往復しながら生きているような気がする。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 
アドラー 人生を生き抜く心理学 (NHKブックス)

アドラー 人生を生き抜く心理学 (NHKブックス)

 

 

2013年の記録

1 ギヴァー

平穏な生活が綻んで世界の膜がめくれ、本当の姿が明らかになる様が圧巻。世界の外へ駆け抜ける疾走感も良い。こういう構造、ストーリーの小説が本当に好きなので、出会えたことが嬉しい。

2 しろいろの街の、その骨の体温の

これも狭いニュータウンの狭い世界を変え、そこから歩き出す話。中学・高校時代の閉塞感がこれでもかと描写されて、変な声が出そうになる。ていうか出た。呻き泣いた。賢くも愚かでもなく輝かしい普通の男の子が愛しい。

3 メモワール

 写真と表現者のずるさと、たぶん愛なく成立していた、愛に見える関係について。たぶん「これも愛だ」と表する人もいるのだろうが、もっと手触りの温度がない。恋愛感情は死んでいる。それでも二人でい続けたことの末路。

 夫婦関係の描写では『K』も印象的だった。写真家のずるさについては『キャパの十字架』も。

4 トラウマ恋愛映画入門

 これに載っている映画は何年かかってでも全部見たい。今年は隣の女、ことの終わり、愛のコリーダなどを見たけれどどれも愛の極北が高いクオリティで描かれていて良かった。


  • 映画(劇場で見たもの中心)

1 アンダーグラウンド

 今更な名作映画なのだけれど、紀伊国屋シアターで初めて見た。現代日本で普通に生活していたら触れられない世界というか、こういうものに出会うことこそ映画の喜び!と思う。見終わって急いでサントラを借りた。

 陽気な音楽とむごい個人の終わり、国の歴史。

2 テイク・ディス・ワルツ

 これはDVDで見たのだけれど、挙げざるをえない。高校生の頃に「リリィ・シュシュのすべて」を見て刺さって抜けなくなったように、今の私にはこの映画が刺さって抜けない。

3 クロニクル

 切なくて面白くて萌えて燃える。とても良い意味でマンガ的な世界がきちんと映画になっていて、この映画や世界観全体に惚れ惚れする。大好きです!!

4 モンスター・ユニバーシティ

 こんな完璧なアニメが作られてしまっていて良いのか、と逆におろおろしてしまう。ピクサーこわい。はじめから終わりまで完全で隙がない。キャラが立っていて笑えて泣けて熱くて、人生そのものの悲哀みたいなものさえある。どうしろと。

5 危険なプロット

 テーマが魅力的だったり、尖っていて刺さったり、という作品も良いけれど、結局、色んなバランスが良くてクオリティが圧倒的に高い作品には適わないところもある。と、この映画を見て思わされた。良いなと思える邦画もたくさんあったのだけれど、ベスト映画という切り口だとやっぱりこっちを選んでしまう。

 テンポよし、映像よし、脚本よし、俳優よし。魔性の美少年ここにあり。


  • アート

1 限局性激痛 ハラ・ミュージアムアーク

 映画や小説の一番残酷なシーンだけ抜き出したような語りと、静かな情景の写真が並ぶ展示。「個人的な辛さ」が世界のすべてになりうるのだと、風景を塗り替えてしまうのだと、理屈でなく染みていった。どうしても見通せずに、中断して出て目にうつった、中庭の緑を忘れられない。

2 国立民族学博物館(常設)

 常設だけど衝撃的だったので。見ても見てもあふれんばかりの、武器や布や人形たち! グロテスクで生々しくて、しかもそれらが「作品」でなくて生活に密着した物であるということに胸打たれる。「奇抜なもの作ってやろう!」なんていう自我のわめき声がなくて、生活者にとって必要なもので、そしてそれがびっくりするほど輝かしい。凄い。

3 ベーコン展 国立近代美術館

 ベーコンの絵を大学の授業で見せられて、とても衝撃を受けたことを覚えている。叫ぶ教皇の絵だった。生で見ないと絶対にわからない、なんて思わないけれど、三幅対が実際に3枚並んでいるものの前に立つときの、自動的に湧き上がるような敬虔さのような気持ちが新鮮だった。この機会に『肉への慈悲』を読んだり、学芸員の保坂氏の講演を聞いたのも面白かった。

4 あなたの肖像- 工藤哲巳回顧展  国立国際美術館

 アートにちょっと食傷気味で(だいたいMOTのせい)、しばらくぶりに美術館へ行って圧倒された。サイバネティクスというか、80年代くらいの雰囲気というか、飴屋さんぽくもあり、シュヴァンクマイエルっぽくもあり。模造ペニスを一体何本見たことか。最後に宗教的とも感じられる世界に逝ってしまうのも何だか自然。

5 這個世界會好嗎?-向京在台北 台北現代美術館(http://www.mocataipei.org.tw/blog/post/28607848

 期待していなかったのだけれど、びっくりするほど良かった。チャップマン兄弟っぽい、ちょっと人体改造要素のある裸像や動物像が多い。女性の作家で、私はこんなに見ていてしっくりくる女体像を見たのは初めてだった。近代美術館でもそうしたテーマの展示があった通り、「ヌード」は男性視点から作られたもので、実際の女性裸像とはかけ離れている。それに対し、女性の皮膚感覚を表していて、遺伝子などのテーマに繋がるような現代性もある、全体的に凄いと思える上にしっくりくるという稀有な作品だった。

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以下はジャンルのうち1つだけ

  • 芝居

ブルーシート

見たのはもうはるか昔のことみたいに感じる。

ダンスクロッシング、「教室」、「201号室」と考えると飴屋さんの芝居を4本も見てる。

  • マンガ

『華なるもの』

 BL。いかにもそれっぽい作風で、「24年組の後継者」みたいに宣伝されている作品もあるけれど、このマンガみたいな作品こそ24年組スピリットだと思う。どこまでも寂しい人間が一人いて、いやおうなく性的なことに晒されて、絆を見つけながらも縋れなくて、寂しいまま死んでいく。これでデビュー作というのだから恐ろしい。

 BL以外だと暗殺教室やハイキューなどジャンプが安定して面白い。「どぶがわ」「累」なども良かった。

  • ドラマ

あまちゃん

 わざわざ書くまでもないけれど、2013年がどんな年だったかというと、半年間あまちゃんが放映されていた年だったので。4月1日、今日から新年度かとちょっとの憂鬱と緊張の中、朝の用意をしながらNHKをつけっ放しにしていたらいつの間にか釘付けになった。朝ドラを見てから出勤できない距離にはもう住めない。

  • アニメ

 2013年がどんな年だったかというと、4ヶ月間Freeがry)  

 勢いあまって中二病氷菓も境界も見た。脚本に色々不満もあるけれど、基本的にはアニメすごい、と圧倒される。絵が上手くて演出が繊細で、キャラクターのことが第一に考えられている。

テイク・ディス・ワルツ


『テイク・ディス・ワルツ』予告編

2011年のカナダのコメディ・ドラマ映画である。 サラ・ポーリー長編映画監督2作目である。 キャッチコピーは『しあわせに鈍感なんじゃない。さみしさに敏感なだけ』。

 

フリーライターのマーゴ(ウィリアムズ)は、取材で訪れた地でダニエル(カービー)という青年と出会う。帰りの飛行機からタクシーまで一緒になったダニエルはマーゴの向かいの家に越してきたばかりだという。マーゴは結婚5年になる夫ルー(ローゲン)と一見幸福な結婚生活を送っているが倦怠期気味であり、その満たされぬ気持ちからダニエルに急速に惹かれて行く。一方のダニエルもマーゴに惹かれて行くが、2人はキスすら交わすことなく、プラトニックな関係を続ける。しかし、想いを抑え切れなくなったダニエルはある朝突然引っ越して行ってしまう。

 

一見、多感な女性がよろめく、よくある恋愛もののように思える。 

夫との暮らしは不幸とは言えない。でも、物足りない。そんなときに魅力的な男性が現れて……。

いっそ、これがそういう「よくある不倫もの」「だらしない女性が男を乗り換える話」で終わっていたのならばよかったのにと思う。

 

10代の頃に見た「リリィ・シュシュのすべて」と並ぶ恐ろしさを感じた映画だった。

画面は美しい。

恋愛のきらきら、ときめきがわかる。

……でもそれが、すぐに恐ろしくなる。

マーゴはダニエルとの恋愛にも飽きる。あれほど魅力的で、ときめきを覚えた相手なのに。きらめきは返ってこない。

でもそれが、マーゴ個人の問題じゃないとわかる。

これはとても、普遍的なことを描いた映画だ。

 

同じような倦怠期夫婦ものとして有名な「ブルー・バレンタイン」は、それでも恋愛の最初の甘美さ/最後の虚しさを見せて、ひどく痛いだけ憐憫に浸る余地がたっぷりあった。

それに対して、「テイク・ディス・ワルツ」では、最初の甘美ささえもはや残されていない。新しい恋愛が始まっても、虚しさとだるさに覆われている。

 

マーゴはダニエルとの関係にも倦む。

まさにそのことが映画冒頭のキッチンでのだるそうな彼女の姿に表わされている。

ルーがいても、ダニエルがいても、彼女は人生に満足できない。

アルコール依存症の義姉は、「人生は満足できなくて当然だ」と彼女に言う。

だからこそ彼女はアルコールに溺れているのだろう。シラフでいるには人生は長すぎるから。

 

永遠を求めるのは幼いことで、幸せだと思える瞬間を数珠つなぎするしかないとわかっていても、数珠の合間のだるさ虚しさを突きつけられるのは辛い。

救いのないこの映画の優しさは、美しい映像と気持ちのいい音楽で、同じ事を「リリィ・シュシュのすべて」を初めて見た時にも思ったのだった。

映画のラストをポジティブに取れば、一人で遊園地のアトラクションに乗り、音楽に身を浸す彼女は、短い快楽の時間を味わっている。すぐにそのアトラクションは終わり、音楽も光も止まるのだけれど。

飴屋法水 「ブルーシート」の記録

 

何かを見に、遠出するときは少し緊張する。

もしそれが期待するようなものでなくても、旅行をしたというだけで満足なのか、そうじゃないのか。

お金と時間をかけて遠出することで、たとえどんな作品であっても、見に来てよかったと自分で補正してしまうことが怖い。

福島は思っていたよりも近かった。

常磐線で途中下車し、水戸芸術館高嶺格「クールジャパン」。

前日に『在日の恋人』を読んだのだが、この作家は良くも悪くも、そのときどきで自身がぶつかった問題を作品にする人なのだろう。松井冬子自傷を描き続けるような、内面からの必然性は感じられない分、社会性がクリアだ。

水戸駅からの道に、東京電力があった。

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「ブルーシート」作・演出 飴屋法水

いわき総合高等学校

「転校生」は平田オリザの脚本があり、それを変えないまま、その行間で女子生徒が一人消えた。

「ブルーシート」は現実と入り混じった脚本で、生徒は十人だったけれど、十一人いた。

誰か減るのじゃないかと恐ろしくて、椅子取りゲームのシーンで、必死に数をかぞえてしまった。

見知らぬ高校生たちは、私よりも若く、順当に行けば私の知らない世界を見るだろう。けれど、わからない。明日にも誰か死んでしまうかもしれない。

こんなに若い彼らを、「いつか死ぬ生き物」として見せる、演じさせるのは残酷だとも思った。

けれどそれは当たり前のことだし、だから「どうでもいい」という視線では決してない。

飴屋さんの、ペットショップを運営していたという経歴をこれほど思い出した舞台もない。

長くはない寿命を共に生きるということ。

作中にはまさにペットを飼う話題が出てくる。

いくらペットを大事にしていても、明日死ぬかもしれない。この世一個に匹敵するほどの価値を持つと誰かが思っていても、生き物としてはただひとつの寿命ある個体に過ぎない。

不正確だけれど、お芝居はあなたは人間ですかというような言葉で終わった。

当たり前の摂理と、それを越えた過剰さ・それにより作られた社会の間に、人間であるということはある。


僕らには

たぶん往復するしか

手がない

飴屋法水 演出ノートより)

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