2012年の記録
今年は大量にマンガを買い込むことをやめて、本も服もたくさん処分し(たぶん1000冊は超える)、引越しをした。
本はすぐにまた増えてきていて、小さな本棚はすぐに一杯になってしまったけれど、選んで、また捨てるだろう。
とても好きなものしか、この部屋には置きたくないから。
・展示
順不同で
「センチメンタルな空」
「川内倫子展:照度、あめつち、影をみる」
「内藤礼 地上はどんなところだったか」ギャラリー小柳
「ボストン美術館展」
・演劇
たぶん5本の指に余るくらいしか見ていない。
ダントツで「飴屋法水さんとジプシー」が良くて、次にままごと「朝がある」
・映画
新作は、悔しいけれど「桐島、部活やめるってよ」しかない。
たぶん、映画館で見たのは両手の指で足りるくらい。
「おおかみこどもの雨と雪」は、近い時期に見た「飴屋法水さんとジプシー」とも響いて印象的だった。
旧作は、「ビフォア・サンセット」「ビフォア・サンライズ」「レボリューショナリー・ロード」
どれも今後、何度も見返すことになると思う。
・本
影響を受けたのは、角田光代『いつも旅のなか』と、津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』
・マンガ
新作からひとつ、田中相『地上はポケットの中の庭』
旧作からひとつ、おかざき真理『サプリ』
・BL
マンガは秀良子が素晴らしく、『彼のバラ色の人生』は何度読んだかわからない
小説は引き続き凪良ゆうを追っている
飴屋法水 「わたしのすがた」 の記録
わたしのすがた 飴屋法水
F/T09(フェスティバル・トーキョー) 西巣鴨
戯曲や芝居のない演劇。
指定された4か所の家を回る。それぞれの家には誰もいないが、アナウンスのような紙が貼ってあり、誰かがいた「気配」だけが残されている。
1 はじまりの穴
2 だいだいの家
3 半分の教会
4 休日診療所
わたしは
日本に生まれました。
11月26日
跡展 12月8日
「わたしのすがた」は一ヶ月前に行ったときとはだいぶ変わっていた。細かい点はきりがないけれど、親切になっていて、そしてより荒廃していた。建物に無関係な他人(観客)の気配のせいか、ざらざらしていた。
飴屋さんが水をまいていて、女子高生が花を持って立っていた。
被災地の写真を見るということ
新宿のコニカミノルタプラザで「DAYS JAPAN が選んだ3.11」展をやっている。改めて、震災が起きたのが今年であり、まだ1年も経たないことであるのに驚く。けれど、展示の中には、インターネットや雑誌で何度も見て、既に見慣れた写真も多い。
4月、私はいつも買わない週刊誌を買った。毎日グラフとAERAとFOCUSだった。
3月、友人や親戚に直接被災した人はおらず、私はひたすらインターネットで写真を見、動画サイトで動画を見た。特に写真のページをいくつもブックマークし、ローカルに保存した。迫り来る津波、建物の上に乗った船、たくさんのがれき、火事の跡、避難所。
そして土葬の風景。
FOCUSには人のいなくなった福島の村の写真や、被災地の夜の写真と共に、死体の写真が載っていた。私は立ち読みでそれを知り、雑誌を買った。
強い罪悪感があった。知らなければならないと義務感もあった。けれど、それを買ったのは4月に入ってからで、狂騒的な時間はすでにすぎていた。
私は見たかった。
・
震災後の写真という副題を付けられた、『アフターマス』という本を読んだ。この本の中で、飯沢耕太郎氏は被害の実態を知るために死体写真を公開するべきだという。
(前略)東日本大震災の死者たちの写真が広く公開され、われわれの前にその姿をあらわすことを望みたい。
(中略)死者のイメージは終わりではなく始まり、帰結ではなく契機であるべきだと思う。
飯沢氏はまず、死者の写真が公開されない理由を、被災者への配慮だとしている。身近な死者の公開はタブーが強い。死体写真家釣崎清隆氏の震災に関する写真展でも、被災者の死体は袋に包まれた状態だった。展示会場の別の面では、ショッキングな南米等の死体写真が堂々と飾られていたのに。
また、ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』を引き、死者の写真を見たいという、いわば下品な欲望もあることを認めるべきだと言う。
苛まれ切断された死体の描写のほとんどは確かに性的な興味を喚起する。
スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』
飯沢氏は、それでもなお、自分が死者になったとしたら、そのことを語ってほしいだろういう想定から写真の公開を肯定する。
これはやや素朴すぎる意見にも聞こえる。死体の写真を見たいという欲望と、自分が死者であったとしたらという仮定が、うまく繋がらない。写真を見る人間は、死者ではありえない。
例えば、ハネケの「ファニー・ゲーム」は、ある家族が突然残酷な目にあうという映画だ。この映画では、所々で犯人が観客に語りかけ、この映像が映画だと暴露するようなシーンがある。それは否応なく、観客を映画内で振るわれる暴力の犯人にする仕掛けだ。観客が望むから、家族は殺されるのだと犯人は暗に語る。
見たいんだろう?と。
釣崎清隆氏の著書あとがきには、世界の貧しい地域での死体写真を日本で公開する行為について、搾取だという指摘があることが記されている。
ソンタグはまた、写真を感傷主義、見せかけの知識、麻酔であり、略奪的だとも言って批判している。
・
7月、『他者の苦痛へのまなざし』を読んだ翌日に、私は石巻市に行き、写真も撮った。石巻には私と同じように、カメラを持った人々がたくさん歩いていた。
問題を引き受けたとき、人は当事者になる
中西 正司 ,上野 千鶴子『当事者主権』
出来事は否応なく人を当事者とそれ以外に分断する。理由なく、ほとんどの場合においては確率的に。
写真は暴力と略奪から逃れられないことがはっきりしているメディアだからこそ、問題を引き受ける契機にもなりうるのではないか。自分が死んだ人間であったならばではなくて、自分が死んだ人間ではないからこそ。
写真が私たちに代わって道義的、知的な仕事をするわけにはいかない。だが、私たちが私たちの道を歩き始める契機にはなるのだ。
スーザン・ソンタグ『この時代に想う テロへの眼差し』
リスト(未)
盤上の夜
廃園の天使
飴屋法水演出「おもいのまま」の記録
とある高級住宅街の一軒家。
周囲の住民がうらやむ優雅な暮らしをしている夫婦がいる。
そんな夫婦のもとへ、ある日「訪問者」が現れた。
チャイムの音を聞きドアを開けると、立っていたのは男二人。
彼らは、最近この町で起こっている連続強盗殺人事件を取材している雑誌記者だと言う。
夫婦は内心では面倒なことになったと思うが、その記者たちは犯罪事件のスクープを数多く挙げ、世間に知られた存在だったため仕方なく取材を受ける。
だが記者たちは何故か、夫婦についての私的な質問をしつこく繰り返すうえ、ズカズカと家に上がりこみ、室内を物色し始める。そのうえ怒る夫に対し、さらに挑戦的に態度を豹変させるのだった。
もはや脅迫者のごとく夫婦に詰め寄る記者たち。質問はさらに夫妻のプライベートへと踏み込み、二人が互いに胸の内に潜めていた「秘密」にまで迫ろうとする。
果たして記者たちの真意はどこにあるのか。
夫婦は、この突然降りかかった災難から抜け出すことができるのか。
ぶつかりあう言葉、暴かれる嘘と秘密。
4人が「真実」に近づいた刹那、世界は反転し、
物語は、観客の予想を越えた「可能性」に向かって疾走を始める。
舞台「おもいのまま」http://www.omoinomama.info/introduction
ループ演劇。
約2時間のこの劇は休憩を挟んで前半後半に分かれ、前半ではバッドエンド、後半ではトゥルーエンドが語られる。
前半においては妻は息子が死んだことを認めておらず、妄想の世界に引き篭っている。夫は横暴で自己中心的であり、無反省である。それゆえに彼は息子を殺した犯人だと記者らに確信され殺される。
後半において夫婦は息子の死を受け止めており、夫婦間には対話があり、記者らは自ら、疑いが誤解だと確信する。彼らは夫婦を殺さずに去る。夫婦らのあり方によっては、「何度でも繰り返す」のだということを示唆しながら。
ラストシーン、妻は手で自分の目を隠すようにして記者らを招き入れる。
・・・
「みんなで話しあえばきっとうまくいく」というひぐらしの方法論そのままの演劇。4人しか出てこない俳優はみな実力があり、脚本もひねくれすぎず、見ていてわかりやすい芝居となっている。不穏な音楽や細々した演出も迫力があり、十分におもしろかった。
だが、教訓的だということはさておいても、違和感が残る。
そもそも、キャラクターならざる人間がループ世界を渡れるのか。「本質的にメタ物語的」とされるキャラクターと違い、生身の人間は非メタ的だ。演技される役柄自体はフィクションである。けれど、それを取り去ってもそこには役者がいるということを私たちは知っている。それは視覚的に、彼らがそこにいることによってまざまざと示される。
舞台が暗転し、芝居が終わった瞬間は独特なものだ。それまで苦痛にうめいていた人物がすっくと立ち上がり、笑顔で挨拶をする。
そこには虚構と現実を渡る行為はあるが、虚構から虚構へは移動しない。
後半が始まり、予想通りループだと判明した当初、個人的にはひどく苛立った。なぜなら、2度めであっても、同じように劇は演じられるべきだと思ったからだ。
まがりなりにも商業演劇で、そんな展開があるはずはない。もちろん後半は、始まりは同じでも少しずつ違う展開になっていくに決まっている。
けれど、同じであるべきだと思った。そしてそれがは、単に2度めの芝居でしかなく、退屈だと思ったから苛立った。
2度めであるがゆえに、何かが変わるという契機は何も読み取れなかった。奇跡が起こる必然性は何もなかった。
それがあると読めない以上、舞台は前半とまったく同じことを繰り返すべきだった。
私たちはギャルゲーの主人公のようには生きていない。(あるいは、生きるべきではない)仮に二人の人間から求愛され、それを選ぶことになったとしても、同じ選択を何万回となくする覚悟で選ぶべきだ。(”これが人生か、さあもう一度”)
涼宮ハルヒの憂鬱のアニメで、夏休みの終わりが延々繰り返されたときにも、たしかに退屈ではあった。けれど、人間が舞台上で同じことを2度繰り返すよりはずっと軽やかだ。
映画だったとしても違っただろう。
「おもいのまま」は演劇だった。目の前で生身の役者が演じていた。
もちろん、理由はないながらも後半では夫婦は気持ちをすっかり入れ替えており、トゥルーといっていいエンドが訪れた。私の苛立ちは的外れなものだという側面もあるかもしれない。
十分におもしろい劇だった。
ループと生身の人間が見合わないからといって、失敗だったとは思わない。ただ、ざらざらする。
人が台の上に立っている。
彼らは、たいてい役者と呼ばれる。
役を演じる者、ということなのだろう。
(飴屋法水 演出ノートより)
岡田利規が「エイリアンのようだ」と言う飴屋法水は、演じることだとか、人間のその生身さといったことまで、感覚的によくわかって、この芝居を演出したように感じられてならない。
人間はキャラクターにはなれない。けれどなんだか恐ろしい。