きがくるわないようにする

読んだこと見たこと考えたこと

アベンジャーズ インフィニティ・ウォー(ヒーローは功利主義を超えるのか?)


「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」本予告

 

ごちゃごちゃになるんじゃないかな、と思いきやならない。
たくさんの映画の人物が合流するのに、流れがとにかく自然、
明らかに不自然な雷神とかいるのに。

それまでの各映画の流れ、キャラがちゃんと生きている。
アイアンマンは宇宙に出るけれど、キャップは出ないという役割分担もぴったりきている。まだ不和のシチュエーションだから二人がばらばらであるのは必然だと思うのだけれど、それがうまく生きている。

物語的必然性と各キャラクターの必然が喧嘩しない。

だから、「このキャラはこんなことしなくない?」とならない。

キャップが地上側でやや政治的雰囲気を引きずり、黒い服を着て髭を伸ばしてお尋ね者感を出しているのがいい。

全部宇宙で、ガーディアンズのノリになってしまうと本当にアベンジャーズでなくガーディアンズ3になってしまう。

 

なんで流れがわかりやすいかというと、そもそも、主人公たちは何をすべきか(石を守るべき)、敵は何をしようとしているか(ガントレットに石を集める)がわかりやすいのもあると思う。

サノス視点がウェットすぎるという意見も見るけれど、このくらいやっておかないと、「悪」に感情移入するのはハードルが高いのではないか。

彼にも感情移入が可能なものにしたことで、二部作の第一作という明らかにヒーローが負けるフェーズだが、見終わった印象が爽やかなものになっている。

これが「理不尽な悪に叩きのめされる」だったら、次で勝つのがわかっていてもこうはならない。

見せ場で言うとエディンバラの、空を飛んでいるところで駅に落ち(縦の動き)、電車が走り終えて(横の動き)からのキャップ登場はケレン味があってかっこいい。とにかくヒーローのこういうかっこいい場面が見たい。
homeだ、というキャップの言葉は日本語で「故郷」としてしまうとやや違和感がある。カタカナでホームの方がまだよかった気がする。

 

 キリスト教的なモチーフなんだろうか、と不思議になるくらい、「身近な誰かを犠牲にして多くを守るか、その逆か」という問いが繰り返される。

たぶんこれは次への布石なのだろう。

より多くを救うために、一は犠牲にすべき、なぜなら功利主義的に考えればその方が生き残る人間が多いから。

それは確かにひとつの理論ではある。

でも、本当に太った男を線路に落とすことが正義なのか?

功利主義的な正義を超えたものを、ヒーローたちが見せてくれることを期待する。