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飴屋法水「何処からの手紙」の記録

※作品の内容のネタバレに当たるものを含みます。行かれる方は見ないことを推奨。

kenpoku-art.jp

  ※このガイドは現地に行くと無料でもらえる。

 

四ヶ所の郵便局に事前に手紙を書き、送られてきた手紙に基づいて各所を訪れるというもの。
手紙にはそれぞれ地図、各所の風景が写ったポストカード、それから物語文のようなものがついている。

「わたしのすがた」はかなり虚構性の強い作品だったけれど、把握できた限りだと「何処からの手紙」はほぼノンフィクションのようだった。
「作品」というほど飴屋さんの手が入っていないのでは?それぞれの場所に行ってみるだけで一体どういう意味が?と思いながら行ったけれど、結論としては行ってよかったと思う。

記憶が新しいうちに、個人的なメモ。

 

「崖を降りて見えるもの」
ガラス張りで海が見えるおしゃれな日立駅は、すぐ下が崖になっていて、その特殊な地形をめぐるもの。

 

 

東日本大震災によって設置された、崖の下から上までつながる非常用階段(日常的に利用できる)を降りて崖の下を歩く。

物語文の中に出てきたあじさいは完全に枯れていた。

 

あたりは完全に住宅街で、駅の近くとは思えないくらい住宅以外は何もない。
波の音がずっと響いていて、津波はどれほどまでやってきたのだろうかと怖くなる。

物語文に出てくる、家がなく塀だけになってしまっている土地などを横目に海沿いをあるき続ける。

海沿いには高速道路が走っている。

物語文の中では、家の中に仕舞われたハーレーのことが出てくるのだが、その実在は確認できなかった。

完全に個人の家のことについての記載なので、どこまでその家に近づいていいのかなど戸惑う。

 

 

 

「日鉱の鉱山、本山跡地」
日鉱記念館という、日立駅からバスで20分ほどの場所にある博物館を訪ねるもの。
この地域はかつて鉱山によって栄えたが、同時に公害も問題になり、山の木が枯れるといったことも起きたという。

 

記念館の中には芸術祭の作品の展示もあるのだが、何しろ鉱山の跡地のため山の中にあり、手紙の指示がなかったら来ない場所だっただろう。

近代日本の成長を、こんな鉱山がいくつも支えてきたのだろう。

 

 

「駅前のカンタ」
物語文に書かれている通り、駅前にすぐ火事のあとがある。
事情があるのだろうが、燃え落ちたままで片付けられずにそのまま残っている。

 

タイトルにあるポスターはその隣の隣にある廃墟のサウナに張られたポスター。
きっと誰かの好みだったのだろう、韓国系俳優のポスターが何枚か張られている。
誰かのはっきりした好みの跡は、なんだか居心地がわるい。
駅前は非常にきれいなのだが、人の姿はあまり見なかった。

 

 

 

 

 

 

「イヤホーンの中のプロスト
これが一番見どころがあり、実際に見るのに時間もかかり、印象的だった場所。
廃墟となったそこそこ大きな旅館の中を自由に歩くもの。

「わたしのすがた」っぽさを一番感じた。

 

 

増改築を繰り返した旅館は変わった作りをしており、全体の広さがわかりにくく、迷路に迷い込んだかのよう。

 

大きな宴会場。

崖に立っているので入り口からはわからないが、5階ほどの高さがあり、往時にはかなり賑わっていたのだろうなと忍ばせる。

あちこちにちょっとした説明書きの紙が張られている。(これが「わたしのすがた」っぽいところかもしれない)

 

この地域の他の展示の中で、今は水戸に人を取られてしまったというようなことも書かれていた。

 

また印象的なのが、この旅館の息子さんが収集していたというF1に関するたくさんのビデオテープのある部屋。

ちょっとした博物館みたいな形でかつて公開もしていたらしい。
息子さんの写真も廊下に飾られている。レーサーを目指していたが、自動車事故を起こして結果的にそれはかなわなかったという。
今はもう旅館はたたまれており、息子さんも施設にいるという。

これもまた誰かのはっきりとした好みの跡。
「誰かがいた」ということ。

たぶんこの旅館はこの展示が終わったら、また廃墟に戻るのだろう。再活用のめどがつかないかぎり、解体はされないのかもしれない。

 

 

「薄くなった神様」
玉川村という非常に小さな駅を降りて、貸自転車で向かう。

 

もっとも不便な場所であり、道もわかりにくい。
電車も一時間に一本。
駅員さんはおらず、定年退職後の人が交代で駅に勤務しているらしい。

踏切を何度か渡るが、ほとんど電車が来ないとわかっているのでなんだか不思議な気持ち。

向かう先には横穴遺跡があり、更にその奥までのぼっていくと、崩れかけた神社のようなものがあった。
過疎化していくばかりの地域で、かつて敬われていた神様も、その存在を忘れられていく。

人の家が廃墟化するのと同じように、神様の居場所もぼろぼろになっていく。
誰もかもがその存在を忘れてしまったら、それはいないと同じことなのだろうか?

 

 

 

「ピンクと緑のホワイトプリン」
もっとも奥まった駅にある場所。電車はやっぱり一時間に一本。

川と山のそばの静かなキャンプ地。

 

非常に静かな場所に、かなり手作り感のあるバンガローがいくつもある。
キャンプ地なので泊まることもできるのだが、例えば一人で泊まるのはかなり勇気がいるだろうなという感じだった。

あまり関係ないけれどポケモンgoをやっていたら、ここでユンゲラーを捕まえた。

 

 

「自分を枯らす木」
電車の都合でどうしても見ることができず。

 

 

 

帰りの電車に乗りながら、「ブルーシート」の最後の問を思い出していた。

”あなたは人間ですか”

茨木北部という場所に来るのはほぼ初めてだった。


昔から日本にはこんな風景がたくさんあったのだろうということ。
そして失われていくものもあるのだろうということ。

また玉川村に行くかといったらたぶん、行かないだろうこと。

特別でも特殊なことでもなくたくさんの人が生きていること。
わたしはニンゲンという移動する点のひとつに過ぎなくて、終わっていくものだということ。


飴屋さんの作品はいつも、その冷たさにも似て、でも柔らかいフラットな視線や、時間が止まるような緊張感に打たれる。


「何処からの手紙」は「わたしのすがた」のような「作られた作品」を求めてしまう気持ちからはやや物足りないけれど、でもやはり見てよかった。