飴屋法水 「ブルーシート」の記録
何かを見に、遠出するときは少し緊張する。
もしそれが期待するようなものでなくても、旅行をしたというだけで満足なのか、そうじゃないのか。
お金と時間をかけて遠出することで、たとえどんな作品であっても、見に来てよかったと自分で補正してしまうことが怖い。
福島は思っていたよりも近かった。
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前日に『在日の恋人』を読んだのだが、この作家は良くも悪くも、そのときどきで自身がぶつかった問題を作品にする人なのだろう。松井冬子が自傷を描き続けるような、内面からの必然性は感じられない分、社会性がクリアだ。
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「ブルーシート」作・演出 飴屋法水
いわき総合高等学校
こらえたのにぽろぽろ泣いてしまった。点呼する10人の高校生が歯抜けになっていくオープニングで、「転校生」のように誰か減ることを予感したら、逆に11人いる!だった。
いつか死ぬ、けれど今生きている生き物として人間を見せる飴屋法水の視点は残酷で、かつ切ない慈しみに満ちている
私たちは観客はだいたい大人なので、彼らの高校生の時間もすぐに過ぎ去ることを知っている。そのことが観劇している中で、ひとりの人間そのものの刹那さと重なる。だからこれは本当に高校生にしかできない舞台なのだと思う。
「転校生」は平田オリザの脚本があり、それを変えないまま、その行間で女子生徒が一人消えた。
「ブルーシート」は現実と入り混じった脚本で、生徒は十人だったけれど、十一人いた。
誰か減るのじゃないかと恐ろしくて、椅子取りゲームのシーンで、必死に数をかぞえてしまった。
見知らぬ高校生たちは、私よりも若く、順当に行けば私の知らない世界を見るだろう。けれど、わからない。明日にも誰か死んでしまうかもしれない。
こんなに若い彼らを、「いつか死ぬ生き物」として見せる、演じさせるのは残酷だとも思った。
けれどそれは当たり前のことだし、だから「どうでもいい」という視線では決してない。
飴屋さんの、ペットショップを運営していたという経歴をこれほど思い出した舞台もない。
長くはない寿命を共に生きるということ。
作中にはまさにペットを飼う話題が出てくる。
いくらペットを大事にしていても、明日死ぬかもしれない。この世一個に匹敵するほどの価値を持つと誰かが思っていても、生き物としてはただひとつの寿命ある個体に過ぎない。
不正確だけれど、お芝居はあなたは人間ですかというような言葉で終わった。
当たり前の摂理と、それを越えた過剰さ・それにより作られた社会の間に、人間であるということはある。
僕らには
たぶん往復するしか
手がない
(飴屋法水 演出ノートより)