選べると選べないの間(『アドラー 人生を生き抜く心理学 』)
アドラーの思想は、おおまかに言えば目的論である。
あの人のルーズな性格が嫌だから付き合わなかった、のではなく、
付き合いたくなかった→だからルーズな性格だという理由をあとから付けた、と考える。
この考え方のいいところは、人間の意志を最大限評価しているところだろう。
人は自分が自分の意志で行動でき、道を選べるという感覚を持っている時、幸福を感じるという。
意に沿わないことをしてきたが、それはもともと自分が意志をしてきた結果なのだ、という認識は、自己啓発的なやる気に繋がる。
実際、例えば「海外旅行に行くことが羨ましい」と言いながらも、行けばいいのにと言っても行かない人がいたりする。その人は、本当は面倒やお金のことを考えたら、「そこまで行きたくない」と考えているわけだったりする。
この考え方で解決できる場面は多いし、「幸福な人生」というものを考える上で非常に示唆的であると思う。
どのような振る舞いができるのか、ではなく「どうしたいのか」から考える。
人生は、選べる。
ただし、意志に沿わない行動というのは有りないのか?という素朴な疑問は残る。また、意志と言っても一枚岩ではないはずで、あまりに単純な考え方にも思える。
結局のところ人に意志なんてないのでは、という気もする。
選べると、そもそも意志なんてない、の間ぐらい。
たとえば旅行に行くことは選べる。
だけど、人を好きになることは「好きになりたかった」意志の結果とは限らない。それらも結局は、ライフヒストリーに回収されるのだとしても、選べると選べないの間を往復しながら生きているような気がする。
2013年の記録
- 本
1 ギヴァー
平穏な生活が綻んで世界の膜がめくれ、本当の姿が明らかになる様が圧巻。世界の外へ駆け抜ける疾走感も良い。こういう構造、ストーリーの小説が本当に好きなので、出会えたことが嬉しい。
2 しろいろの街の、その骨の体温の
これも狭いニュータウンの狭い世界を変え、そこから歩き出す話。中学・高校時代の閉塞感がこれでもかと描写されて、変な声が出そうになる。ていうか出た。呻き泣いた。賢くも愚かでもなく輝かしい普通の男の子が愛しい。
3 メモワール
写真と表現者のずるさと、たぶん愛なく成立していた、愛に見える関係について。たぶん「これも愛だ」と表する人もいるのだろうが、もっと手触りの温度がない。恋愛感情は死んでいる。それでも二人でい続けたことの末路。
夫婦関係の描写では『K』も印象的だった。写真家のずるさについては『キャパの十字架』も。
4 トラウマ恋愛映画入門
これに載っている映画は何年かかってでも全部見たい。今年は隣の女、ことの終わり、愛のコリーダなどを見たけれどどれも愛の極北が高いクオリティで描かれていて良かった。
- 映画(劇場で見たもの中心)
今更な名作映画なのだけれど、紀伊国屋シアターで初めて見た。現代日本で普通に生活していたら触れられない世界というか、こういうものに出会うことこそ映画の喜び!と思う。見終わって急いでサントラを借りた。
陽気な音楽とむごい個人の終わり、国の歴史。
これはDVDで見たのだけれど、挙げざるをえない。高校生の頃に「リリィ・シュシュのすべて」を見て刺さって抜けなくなったように、今の私にはこの映画が刺さって抜けない。
3 クロニクル
切なくて面白くて萌えて燃える。とても良い意味でマンガ的な世界がきちんと映画になっていて、この映画や世界観全体に惚れ惚れする。大好きです!!
4 モンスター・ユニバーシティ
こんな完璧なアニメが作られてしまっていて良いのか、と逆におろおろしてしまう。ピクサーこわい。はじめから終わりまで完全で隙がない。キャラが立っていて笑えて泣けて熱くて、人生そのものの悲哀みたいなものさえある。どうしろと。
5 危険なプロット
テーマが魅力的だったり、尖っていて刺さったり、という作品も良いけれど、結局、色んなバランスが良くてクオリティが圧倒的に高い作品には適わないところもある。と、この映画を見て思わされた。良いなと思える邦画もたくさんあったのだけれど、ベスト映画という切り口だとやっぱりこっちを選んでしまう。
テンポよし、映像よし、脚本よし、俳優よし。魔性の美少年ここにあり。
- アート
1 限局性激痛 ハラ・ミュージアムアーク
映画や小説の一番残酷なシーンだけ抜き出したような語りと、静かな情景の写真が並ぶ展示。「個人的な辛さ」が世界のすべてになりうるのだと、風景を塗り替えてしまうのだと、理屈でなく染みていった。どうしても見通せずに、中断して出て目にうつった、中庭の緑を忘れられない。
2 国立民族学博物館(常設)
常設だけど衝撃的だったので。見ても見てもあふれんばかりの、武器や布や人形たち! グロテスクで生々しくて、しかもそれらが「作品」でなくて生活に密着した物であるということに胸打たれる。「奇抜なもの作ってやろう!」なんていう自我のわめき声がなくて、生活者にとって必要なもので、そしてそれがびっくりするほど輝かしい。凄い。
3 ベーコン展 国立近代美術館
ベーコンの絵を大学の授業で見せられて、とても衝撃を受けたことを覚えている。叫ぶ教皇の絵だった。生で見ないと絶対にわからない、なんて思わないけれど、三幅対が実際に3枚並んでいるものの前に立つときの、自動的に湧き上がるような敬虔さのような気持ちが新鮮だった。この機会に『肉への慈悲』を読んだり、学芸員の保坂氏の講演を聞いたのも面白かった。
アートにちょっと食傷気味で(だいたいMOTのせい)、しばらくぶりに美術館へ行って圧倒された。サイバネティクスというか、80年代くらいの雰囲気というか、飴屋さんぽくもあり、シュヴァンクマイエルっぽくもあり。模造ペニスを一体何本見たことか。最後に宗教的とも感じられる世界に逝ってしまうのも何だか自然。
5 這個世界會好嗎?-向京在台北 台北現代美術館(http://www.mocataipei.org.tw/blog/post/28607848)
期待していなかったのだけれど、びっくりするほど良かった。チャップマン兄弟っぽい、ちょっと人体改造要素のある裸像や動物像が多い。女性の作家で、私はこんなに見ていてしっくりくる女体像を見たのは初めてだった。近代美術館でもそうしたテーマの展示があった通り、「ヌード」は男性視点から作られたもので、実際の女性裸像とはかけ離れている。それに対し、女性の皮膚感覚を表していて、遺伝子などのテーマに繋がるような現代性もある、全体的に凄いと思える上にしっくりくるという稀有な作品だった。
以下はジャンルのうち1つだけ
- 芝居
ブルーシート
見たのはもうはるか昔のことみたいに感じる。
ダンスクロッシング、「教室」、「201号室」と考えると飴屋さんの芝居を4本も見てる。
- マンガ
『華なるもの』
BL。いかにもそれっぽい作風で、「24年組の後継者」みたいに宣伝されている作品もあるけれど、このマンガみたいな作品こそ24年組スピリットだと思う。どこまでも寂しい人間が一人いて、いやおうなく性的なことに晒されて、絆を見つけながらも縋れなくて、寂しいまま死んでいく。これでデビュー作というのだから恐ろしい。
BL以外だと暗殺教室やハイキューなどジャンプが安定して面白い。「どぶがわ」「累」なども良かった。
- ドラマ
わざわざ書くまでもないけれど、2013年がどんな年だったかというと、半年間あまちゃんが放映されていた年だったので。4月1日、今日から新年度かとちょっとの憂鬱と緊張の中、朝の用意をしながらNHKをつけっ放しにしていたらいつの間にか釘付けになった。朝ドラを見てから出勤できない距離にはもう住めない。
- アニメ
2013年がどんな年だったかというと、4ヶ月間Freeがry)
勢いあまって中二病も氷菓も境界も見た。脚本に色々不満もあるけれど、基本的にはアニメすごい、と圧倒される。絵が上手くて演出が繊細で、キャラクターのことが第一に考えられている。
テイク・ディス・ワルツ
2011年のカナダのコメディ・ドラマ映画である。 サラ・ポーリーの長編映画監督2作目である。 キャッチコピーは『しあわせに鈍感なんじゃない。さみしさに敏感なだけ』。
フリーライターのマーゴ(ウィリアムズ)は、取材で訪れた地でダニエル(カービー)という青年と出会う。帰りの飛行機からタクシーまで一緒になったダニエルはマーゴの向かいの家に越してきたばかりだという。マーゴは結婚5年になる夫ルー(ローゲン)と一見幸福な結婚生活を送っているが倦怠期気味であり、その満たされぬ気持ちからダニエルに急速に惹かれて行く。一方のダニエルもマーゴに惹かれて行くが、2人はキスすら交わすことなく、プラトニックな関係を続ける。しかし、想いを抑え切れなくなったダニエルはある朝突然引っ越して行ってしまう。
一見、多感な女性がよろめく、よくある恋愛もののように思える。
夫との暮らしは不幸とは言えない。でも、物足りない。そんなときに魅力的な男性が現れて……。
いっそ、これがそういう「よくある不倫もの」「だらしない女性が男を乗り換える話」で終わっていたのならばよかったのにと思う。
10代の頃に見た「リリィ・シュシュのすべて」と並ぶ恐ろしさを感じた映画だった。
画面は美しい。
恋愛のきらきら、ときめきがわかる。
……でもそれが、すぐに恐ろしくなる。
マーゴはダニエルとの恋愛にも飽きる。あれほど魅力的で、ときめきを覚えた相手なのに。きらめきは返ってこない。
でもそれが、マーゴ個人の問題じゃないとわかる。
これはとても、普遍的なことを描いた映画だ。
同じような倦怠期夫婦ものとして有名な「ブルー・バレンタイン」は、それでも恋愛の最初の甘美さ/最後の虚しさを見せて、ひどく痛いだけ憐憫に浸る余地がたっぷりあった。
それに対して、「テイク・ディス・ワルツ」では、最初の甘美ささえもはや残されていない。新しい恋愛が始まっても、虚しさとだるさに覆われている。
マーゴはダニエルとの関係にも倦む。
まさにそのことが映画冒頭のキッチンでのだるそうな彼女の姿に表わされている。
ルーがいても、ダニエルがいても、彼女は人生に満足できない。
アルコール依存症の義姉は、「人生は満足できなくて当然だ」と彼女に言う。
だからこそ彼女はアルコールに溺れているのだろう。シラフでいるには人生は長すぎるから。
永遠を求めるのは幼いことで、幸せだと思える瞬間を数珠つなぎするしかないとわかっていても、数珠の合間のだるさ虚しさを突きつけられるのは辛い。
救いのないこの映画の優しさは、美しい映像と気持ちのいい音楽で、同じ事を「リリィ・シュシュのすべて」を初めて見た時にも思ったのだった。
映画のラストをポジティブに取れば、一人で遊園地のアトラクションに乗り、音楽に身を浸す彼女は、短い快楽の時間を味わっている。すぐにそのアトラクションは終わり、音楽も光も止まるのだけれど。
飴屋法水 「ブルーシート」の記録
何かを見に、遠出するときは少し緊張する。
もしそれが期待するようなものでなくても、旅行をしたというだけで満足なのか、そうじゃないのか。
お金と時間をかけて遠出することで、たとえどんな作品であっても、見に来てよかったと自分で補正してしまうことが怖い。
福島は思っていたよりも近かった。
・
前日に『在日の恋人』を読んだのだが、この作家は良くも悪くも、そのときどきで自身がぶつかった問題を作品にする人なのだろう。松井冬子が自傷を描き続けるような、内面からの必然性は感じられない分、社会性がクリアだ。
・
「ブルーシート」作・演出 飴屋法水
いわき総合高等学校
こらえたのにぽろぽろ泣いてしまった。点呼する10人の高校生が歯抜けになっていくオープニングで、「転校生」のように誰か減ることを予感したら、逆に11人いる!だった。
いつか死ぬ、けれど今生きている生き物として人間を見せる飴屋法水の視点は残酷で、かつ切ない慈しみに満ちている
私たちは観客はだいたい大人なので、彼らの高校生の時間もすぐに過ぎ去ることを知っている。そのことが観劇している中で、ひとりの人間そのものの刹那さと重なる。だからこれは本当に高校生にしかできない舞台なのだと思う。
「転校生」は平田オリザの脚本があり、それを変えないまま、その行間で女子生徒が一人消えた。
「ブルーシート」は現実と入り混じった脚本で、生徒は十人だったけれど、十一人いた。
誰か減るのじゃないかと恐ろしくて、椅子取りゲームのシーンで、必死に数をかぞえてしまった。
見知らぬ高校生たちは、私よりも若く、順当に行けば私の知らない世界を見るだろう。けれど、わからない。明日にも誰か死んでしまうかもしれない。
こんなに若い彼らを、「いつか死ぬ生き物」として見せる、演じさせるのは残酷だとも思った。
けれどそれは当たり前のことだし、だから「どうでもいい」という視線では決してない。
飴屋さんの、ペットショップを運営していたという経歴をこれほど思い出した舞台もない。
長くはない寿命を共に生きるということ。
作中にはまさにペットを飼う話題が出てくる。
いくらペットを大事にしていても、明日死ぬかもしれない。この世一個に匹敵するほどの価値を持つと誰かが思っていても、生き物としてはただひとつの寿命ある個体に過ぎない。
不正確だけれど、お芝居はあなたは人間ですかというような言葉で終わった。
当たり前の摂理と、それを越えた過剰さ・それにより作られた社会の間に、人間であるということはある。
僕らには
たぶん往復するしか
手がない
(飴屋法水 演出ノートより)
2012年の記録
今年は大量にマンガを買い込むことをやめて、本も服もたくさん処分し(たぶん1000冊は超える)、引越しをした。
本はすぐにまた増えてきていて、小さな本棚はすぐに一杯になってしまったけれど、選んで、また捨てるだろう。
とても好きなものしか、この部屋には置きたくないから。
・展示
順不同で
「センチメンタルな空」
「川内倫子展:照度、あめつち、影をみる」
「内藤礼 地上はどんなところだったか」ギャラリー小柳
「ボストン美術館展」
・演劇
たぶん5本の指に余るくらいしか見ていない。
ダントツで「飴屋法水さんとジプシー」が良くて、次にままごと「朝がある」
・映画
新作は、悔しいけれど「桐島、部活やめるってよ」しかない。
たぶん、映画館で見たのは両手の指で足りるくらい。
「おおかみこどもの雨と雪」は、近い時期に見た「飴屋法水さんとジプシー」とも響いて印象的だった。
旧作は、「ビフォア・サンセット」「ビフォア・サンライズ」「レボリューショナリー・ロード」
どれも今後、何度も見返すことになると思う。
・本
影響を受けたのは、角田光代『いつも旅のなか』と、津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』
・マンガ
新作からひとつ、田中相『地上はポケットの中の庭』
旧作からひとつ、おかざき真理『サプリ』
・BL
マンガは秀良子が素晴らしく、『彼のバラ色の人生』は何度読んだかわからない
小説は引き続き凪良ゆうを追っている
飴屋法水 「わたしのすがた」 の記録
わたしのすがた 飴屋法水
F/T09(フェスティバル・トーキョー) 西巣鴨
戯曲や芝居のない演劇。
指定された4か所の家を回る。それぞれの家には誰もいないが、アナウンスのような紙が貼ってあり、誰かがいた「気配」だけが残されている。
1 はじまりの穴
2 だいだいの家
3 半分の教会
4 休日診療所
わたしは
日本に生まれました。
11月26日
跡展 12月8日
「わたしのすがた」は一ヶ月前に行ったときとはだいぶ変わっていた。細かい点はきりがないけれど、親切になっていて、そしてより荒廃していた。建物に無関係な他人(観客)の気配のせいか、ざらざらしていた。
飴屋さんが水をまいていて、女子高生が花を持って立っていた。
被災地の写真を見るということ
新宿のコニカミノルタプラザで「DAYS JAPAN が選んだ3.11」展をやっている。改めて、震災が起きたのが今年であり、まだ1年も経たないことであるのに驚く。けれど、展示の中には、インターネットや雑誌で何度も見て、既に見慣れた写真も多い。
4月、私はいつも買わない週刊誌を買った。毎日グラフとAERAとFOCUSだった。
3月、友人や親戚に直接被災した人はおらず、私はひたすらインターネットで写真を見、動画サイトで動画を見た。特に写真のページをいくつもブックマークし、ローカルに保存した。迫り来る津波、建物の上に乗った船、たくさんのがれき、火事の跡、避難所。
そして土葬の風景。
FOCUSには人のいなくなった福島の村の写真や、被災地の夜の写真と共に、死体の写真が載っていた。私は立ち読みでそれを知り、雑誌を買った。
強い罪悪感があった。知らなければならないと義務感もあった。けれど、それを買ったのは4月に入ってからで、狂騒的な時間はすでにすぎていた。
私は見たかった。
・
震災後の写真という副題を付けられた、『アフターマス』という本を読んだ。この本の中で、飯沢耕太郎氏は被害の実態を知るために死体写真を公開するべきだという。
(前略)東日本大震災の死者たちの写真が広く公開され、われわれの前にその姿をあらわすことを望みたい。
(中略)死者のイメージは終わりではなく始まり、帰結ではなく契機であるべきだと思う。
飯沢氏はまず、死者の写真が公開されない理由を、被災者への配慮だとしている。身近な死者の公開はタブーが強い。死体写真家釣崎清隆氏の震災に関する写真展でも、被災者の死体は袋に包まれた状態だった。展示会場の別の面では、ショッキングな南米等の死体写真が堂々と飾られていたのに。
また、ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』を引き、死者の写真を見たいという、いわば下品な欲望もあることを認めるべきだと言う。
苛まれ切断された死体の描写のほとんどは確かに性的な興味を喚起する。
スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』
飯沢氏は、それでもなお、自分が死者になったとしたら、そのことを語ってほしいだろういう想定から写真の公開を肯定する。
これはやや素朴すぎる意見にも聞こえる。死体の写真を見たいという欲望と、自分が死者であったとしたらという仮定が、うまく繋がらない。写真を見る人間は、死者ではありえない。
例えば、ハネケの「ファニー・ゲーム」は、ある家族が突然残酷な目にあうという映画だ。この映画では、所々で犯人が観客に語りかけ、この映像が映画だと暴露するようなシーンがある。それは否応なく、観客を映画内で振るわれる暴力の犯人にする仕掛けだ。観客が望むから、家族は殺されるのだと犯人は暗に語る。
見たいんだろう?と。
釣崎清隆氏の著書あとがきには、世界の貧しい地域での死体写真を日本で公開する行為について、搾取だという指摘があることが記されている。
ソンタグはまた、写真を感傷主義、見せかけの知識、麻酔であり、略奪的だとも言って批判している。
・
7月、『他者の苦痛へのまなざし』を読んだ翌日に、私は石巻市に行き、写真も撮った。石巻には私と同じように、カメラを持った人々がたくさん歩いていた。
問題を引き受けたとき、人は当事者になる
中西 正司 ,上野 千鶴子『当事者主権』
出来事は否応なく人を当事者とそれ以外に分断する。理由なく、ほとんどの場合においては確率的に。
写真は暴力と略奪から逃れられないことがはっきりしているメディアだからこそ、問題を引き受ける契機にもなりうるのではないか。自分が死んだ人間であったならばではなくて、自分が死んだ人間ではないからこそ。
写真が私たちに代わって道義的、知的な仕事をするわけにはいかない。だが、私たちが私たちの道を歩き始める契機にはなるのだ。
スーザン・ソンタグ『この時代に想う テロへの眼差し』