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飴屋法水演出「おもいのまま」の記録

とある高級住宅街の一軒家。

周囲の住民がうらやむ優雅な暮らしをしている夫婦がいる。

そんな夫婦のもとへ、ある日「訪問者」が現れた。

チャイムの音を聞きドアを開けると、立っていたのは男二人。

彼らは、最近この町で起こっている連続強盗殺人事件を取材している雑誌記者だと言う。

夫婦は内心では面倒なことになったと思うが、その記者たちは犯罪事件のスクープを数多く挙げ、世間に知られた存在だったため仕方なく取材を受ける。

だが記者たちは何故か、夫婦についての私的な質問をしつこく繰り返すうえ、ズカズカと家に上がりこみ、室内を物色し始める。そのうえ怒る夫に対し、さらに挑戦的に態度を豹変させるのだった。

もはや脅迫者のごとく夫婦に詰め寄る記者たち。質問はさらに夫妻のプライベートへと踏み込み、二人が互いに胸の内に潜めていた「秘密」にまで迫ろうとする。

果たして記者たちの真意はどこにあるのか。

夫婦は、この突然降りかかった災難から抜け出すことができるのか。

ぶつかりあう言葉、暴かれる嘘と秘密。

4人が「真実」に近づいた刹那、世界は反転し、

物語は、観客の予想を越えた「可能性」に向かって疾走を始める。


舞台「おもいのまま」http://www.omoinomama.info/introduction

ループ演劇。

約2時間のこの劇は休憩を挟んで前半後半に分かれ、前半ではバッドエンド、後半ではトゥルーエンドが語られる。

前半においては妻は息子が死んだことを認めておらず、妄想の世界に引き篭っている。夫は横暴で自己中心的であり、無反省である。それゆえに彼は息子を殺した犯人だと記者らに確信され殺される。

後半において夫婦は息子の死を受け止めており、夫婦間には対話があり、記者らは自ら、疑いが誤解だと確信する。彼らは夫婦を殺さずに去る。夫婦らのあり方によっては、「何度でも繰り返す」のだということを示唆しながら。

ラストシーン、妻は手で自分の目を隠すようにして記者らを招き入れる。

・・・

「みんなで話しあえばきっとうまくいく」というひぐらしの方法論そのままの演劇。4人しか出てこない俳優はみな実力があり、脚本もひねくれすぎず、見ていてわかりやすい芝居となっている。不穏な音楽や細々した演出も迫力があり、十分におもしろかった。

だが、教訓的だということはさておいても、違和感が残る。

 そもそも、キャラクターならざる人間がループ世界を渡れるのか。「本質的にメタ物語的」とされるキャラクターと違い、生身の人間は非メタ的だ。演技される役柄自体はフィクションである。けれど、それを取り去ってもそこには役者がいるということを私たちは知っている。それは視覚的に、彼らがそこにいることによってまざまざと示される。

 舞台が暗転し、芝居が終わった瞬間は独特なものだ。それまで苦痛にうめいていた人物がすっくと立ち上がり、笑顔で挨拶をする。

 そこには虚構と現実を渡る行為はあるが、虚構から虚構へは移動しない。

 後半が始まり、予想通りループだと判明した当初、個人的にはひどく苛立った。なぜなら、2度めであっても、同じように劇は演じられるべきだと思ったからだ。

 まがりなりにも商業演劇で、そんな展開があるはずはない。もちろん後半は、始まりは同じでも少しずつ違う展開になっていくに決まっている。

 けれど、同じであるべきだと思った。そしてそれがは、単に2度めの芝居でしかなく、退屈だと思ったから苛立った。

 2度めであるがゆえに、何かが変わるという契機は何も読み取れなかった。奇跡が起こる必然性は何もなかった。

 それがあると読めない以上、舞台は前半とまったく同じことを繰り返すべきだった。

 私たちはギャルゲーの主人公のようには生きていない。(あるいは、生きるべきではない)仮に二人の人間から求愛され、それを選ぶことになったとしても、同じ選択を何万回となくする覚悟で選ぶべきだ。(”これが人生か、さあもう一度”)

 涼宮ハルヒの憂鬱のアニメで、夏休みの終わりが延々繰り返されたときにも、たしかに退屈ではあった。けれど、人間が舞台上で同じことを2度繰り返すよりはずっと軽やかだ。

 映画だったとしても違っただろう。

 「おもいのまま」は演劇だった。目の前で生身の役者が演じていた。

 もちろん、理由はないながらも後半では夫婦は気持ちをすっかり入れ替えており、トゥルーといっていいエンドが訪れた。私の苛立ちは的外れなものだという側面もあるかもしれない。

 十分におもしろい劇だった。

 ループと生身の人間が見合わないからといって、失敗だったとは思わない。ただ、ざらざらする。

人が台の上に立っている。

彼らは、たいてい役者と呼ばれる。

役を演じる者、ということなのだろう。

飴屋法水 演出ノートより)

 岡田利規が「エイリアンのようだ」と言う飴屋法水は、演じることだとか、人間のその生身さといったことまで、感覚的によくわかって、この芝居を演出したように感じられてならない。

 人間はキャラクターにはなれない。けれどなんだか恐ろしい。