トーニャとモリーのゲーム(何にせよ人生は続く)
アーロン・ソーキンの監督デビュー作、本作の冒頭でモリー・ブルームはいろいろなスポーツマンの、最悪な瞬間について語る。
例えば、オリンピックで4位だったこと。
そしてモリーが、そもそもオリンピックに出れなくなる事故について映像で語られる。
モリーは言う。
オリンピックで4位? くそ食らえと。
トーニャはオリンピックで、まさに4位だった。
・
どちらも実話をもとにした元女性スポーツ選手についての映画だ。
どちらの女性も完璧に清廉潔白とは言いがたい。
父あるいは母に強く支配されている。
男運は悪い。
FBIに捜査される。
スポーツができなくなった後、別の世界に踏み出す。
ここまでは共通。
だが有罪判決かどうかは異なる。
スポーツで残した記録も。
父あるいは母と和解できるかどうかも。
二人は似ているようで、やっぱり似ていないのか。
まずモリーズゲーム。
名脚本家アーロン・ソーキンの脚本は相変わらず冴えていて、
えんえんと早口を浴びているとこれ自体がドラッグじゃないかという気がしてくる。
とても刺激的で面白いが、父との確執からの和解は、やや類型的にも過ぎる気がする。
「父に対する反抗から、男たちを支配しようとしてポーカーの胴締めを始めたのではないか?」と分析する父はインテリだ。(さすがにそれは矮小化しすぎじゃないかと思うけれど)
一方でアイ、トーニャ。トーニャは母親と和解したりしない。
できない。
できるような相手じゃない。母親も夫もその友人も学のある人は一人もおらず、バカのインフレで、どんどんとんでもないことになっていく。
二人は似ていない。
でも、どちらもアメリカで起きた話で、富裕層も貧困層もアメリカの現実だ。
モリーは上流階級の間を泳ぐが、トーニャは貧困層の間で暴力にまみれている。
二人のいるところはまるで違う。
だけど、似ていないようでやっぱり似ている。
スポーツでの成功はいわゆるアメリカンドリームだろう。
スポーツは一応、平等に個人を評価してくれることになっているから、誰にとっても最後の砦になりうる。
だが結局はトーニャのように、「スケートだけ」で評価してもらえる世界じゃない。
そのゲームを、彼女たちはベストな形では攻略できなかった。
だが モリーは「私はしぶとい」と言い、トーニャは「私は往生際が悪いわけじゃない」と言う。
どんな場所でも二人は生きていくだろう。
オリンピックが終わっても人生は続く。
次のゲームが始まるのだ。
アベンジャーズ インフィニティ・ウォー(ヒーローは功利主義を超えるのか?)
ごちゃごちゃになるんじゃないかな、と思いきやならない。
たくさんの映画の人物が合流するのに、流れがとにかく自然、
明らかに不自然な雷神とかいるのに。
それまでの各映画の流れ、キャラがちゃんと生きている。
アイアンマンは宇宙に出るけれど、キャップは出ないという役割分担もぴったりきている。まだ不和のシチュエーションだから二人がばらばらであるのは必然だと思うのだけれど、それがうまく生きている。
物語的必然性と各キャラクターの必然が喧嘩しない。
だから、「このキャラはこんなことしなくない?」とならない。
キャップが地上側でやや政治的雰囲気を引きずり、黒い服を着て髭を伸ばしてお尋ね者感を出しているのがいい。
全部宇宙で、ガーディアンズのノリになってしまうと本当にアベンジャーズでなくガーディアンズ3になってしまう。
なんで流れがわかりやすいかというと、そもそも、主人公たちは何をすべきか(石を守るべき)、敵は何をしようとしているか(ガントレットに石を集める)がわかりやすいのもあると思う。
サノス視点がウェットすぎるという意見も見るけれど、このくらいやっておかないと、「悪」に感情移入するのはハードルが高いのではないか。
彼にも感情移入が可能なものにしたことで、二部作の第一作という明らかにヒーローが負けるフェーズだが、見終わった印象が爽やかなものになっている。
これが「理不尽な悪に叩きのめされる」だったら、次で勝つのがわかっていてもこうはならない。
見せ場で言うとエディンバラの、空を飛んでいるところで駅に落ち(縦の動き)、電車が走り終えて(横の動き)からのキャップ登場はケレン味があってかっこいい。とにかくヒーローのこういうかっこいい場面が見たい。
homeだ、というキャップの言葉は日本語で「故郷」としてしまうとやや違和感がある。カタカナでホームの方がまだよかった気がする。
キリスト教的なモチーフなんだろうか、と不思議になるくらい、「身近な誰かを犠牲にして多くを守るか、その逆か」という問いが繰り返される。
たぶんこれは次への布石なのだろう。
より多くを救うために、一は犠牲にすべき、なぜなら功利主義的に考えればその方が生き残る人間が多いから。
それは確かにひとつの理論ではある。
でも、本当に太った男を線路に落とすことが正義なのか?
功利主義的な正義を超えたものを、ヒーローたちが見せてくれることを期待する。
飴屋法水「彼の娘」
不思議な小説だ。小説と言うのも少し違うのかもしれない。
写真が非常に多く、どれも解像度は低い。
作者本人を思わせる男と、その娘が出てくる。娘は 好奇心旺盛に生きている。
自分は半分ホトケだと、ちょっとびっくりするようなことも言う。
作者本人のファンからすると、明らかにノンフィクションだろうとわかる描写がいくつもある。
娘の名前も事実と同じだ。
「おくるみ」から取った「くるみ」ちゃん。くんちゃん。
これは、小説だろうか。エッセイではない。演劇にも似ているような気がする。
だがそもそも、家族で出演する演劇など、非常に私小説的な演劇も飴屋法水は作成している。
多分ジャンルにこだわることには意味がない。
動物として、父や母から続いていること。子供につながっていくこと。
それはとても偶然に左右されたことで、だけど同時にとても人間的であること。
非常に感想が書きにくい。だが、飴屋法水的というしかないエッセンスが確かに凝縮されている。
飴屋法水「何処からの手紙」の記録
※作品の内容のネタバレに当たるものを含みます。行かれる方は見ないことを推奨。
四ヶ所の郵便局に事前に手紙を書き、送られてきた手紙に基づいて各所を訪れるというもの。
手紙にはそれぞれ地図、各所の風景が写ったポストカード、それから物語文のようなものがついている。
「わたしのすがた」はかなり虚構性の強い作品だったけれど、把握できた限りだと「何処からの手紙」はほぼノンフィクションのようだった。
「作品」というほど飴屋さんの手が入っていないのでは?それぞれの場所に行ってみるだけで一体どういう意味が?と思いながら行ったけれど、結論としては行ってよかったと思う。
記憶が新しいうちに、個人的なメモ。
「崖を降りて見えるもの」
ガラス張りで海が見えるおしゃれな日立駅は、すぐ下が崖になっていて、その特殊な地形をめぐるもの。
東日本大震災によって設置された、崖の下から上までつながる非常用階段(日常的に利用できる)を降りて崖の下を歩く。
物語文の中に出てきたあじさいは完全に枯れていた。
あたりは完全に住宅街で、駅の近くとは思えないくらい住宅以外は何もない。
波の音がずっと響いていて、津波はどれほどまでやってきたのだろうかと怖くなる。
物語文に出てくる、家がなく塀だけになってしまっている土地などを横目に海沿いをあるき続ける。
海沿いには高速道路が走っている。
物語文の中では、家の中に仕舞われたハーレーのことが出てくるのだが、その実在は確認できなかった。
完全に個人の家のことについての記載なので、どこまでその家に近づいていいのかなど戸惑う。
「日鉱の鉱山、本山跡地」
日鉱記念館という、日立駅からバスで20分ほどの場所にある博物館を訪ねるもの。
この地域はかつて鉱山によって栄えたが、同時に公害も問題になり、山の木が枯れるといったことも起きたという。
記念館の中には芸術祭の作品の展示もあるのだが、何しろ鉱山の跡地のため山の中にあり、手紙の指示がなかったら来ない場所だっただろう。
近代日本の成長を、こんな鉱山がいくつも支えてきたのだろう。
「駅前のカンタ」
物語文に書かれている通り、駅前にすぐ火事のあとがある。
事情があるのだろうが、燃え落ちたままで片付けられずにそのまま残っている。
タイトルにあるポスターはその隣の隣にある廃墟のサウナに張られたポスター。
きっと誰かの好みだったのだろう、韓国系俳優のポスターが何枚か張られている。
誰かのはっきりした好みの跡は、なんだか居心地がわるい。
駅前は非常にきれいなのだが、人の姿はあまり見なかった。
「イヤホーンの中のプロスト」
これが一番見どころがあり、実際に見るのに時間もかかり、印象的だった場所。
廃墟となったそこそこ大きな旅館の中を自由に歩くもの。
「わたしのすがた」っぽさを一番感じた。
増改築を繰り返した旅館は変わった作りをしており、全体の広さがわかりにくく、迷路に迷い込んだかのよう。
大きな宴会場。
崖に立っているので入り口からはわからないが、5階ほどの高さがあり、往時にはかなり賑わっていたのだろうなと忍ばせる。
あちこちにちょっとした説明書きの紙が張られている。(これが「わたしのすがた」っぽいところかもしれない)
この地域の他の展示の中で、今は水戸に人を取られてしまったというようなことも書かれていた。
また印象的なのが、この旅館の息子さんが収集していたというF1に関するたくさんのビデオテープのある部屋。
ちょっとした博物館みたいな形でかつて公開もしていたらしい。
息子さんの写真も廊下に飾られている。レーサーを目指していたが、自動車事故を起こして結果的にそれはかなわなかったという。
今はもう旅館はたたまれており、息子さんも施設にいるという。
これもまた誰かのはっきりとした好みの跡。
「誰かがいた」ということ。
たぶんこの旅館はこの展示が終わったら、また廃墟に戻るのだろう。再活用のめどがつかないかぎり、解体はされないのかもしれない。
「薄くなった神様」
玉川村という非常に小さな駅を降りて、貸自転車で向かう。
もっとも不便な場所であり、道もわかりにくい。
電車も一時間に一本。
駅員さんはおらず、定年退職後の人が交代で駅に勤務しているらしい。
踏切を何度か渡るが、ほとんど電車が来ないとわかっているのでなんだか不思議な気持ち。
向かう先には横穴遺跡があり、更にその奥までのぼっていくと、崩れかけた神社のようなものがあった。
過疎化していくばかりの地域で、かつて敬われていた神様も、その存在を忘れられていく。
人の家が廃墟化するのと同じように、神様の居場所もぼろぼろになっていく。
誰もかもがその存在を忘れてしまったら、それはいないと同じことなのだろうか?
「ピンクと緑のホワイトプリン」
もっとも奥まった駅にある場所。電車はやっぱり一時間に一本。
川と山のそばの静かなキャンプ地。
非常に静かな場所に、かなり手作り感のあるバンガローがいくつもある。
キャンプ地なので泊まることもできるのだが、例えば一人で泊まるのはかなり勇気がいるだろうなという感じだった。
あまり関係ないけれどポケモンgoをやっていたら、ここでユンゲラーを捕まえた。
「自分を枯らす木」
電車の都合でどうしても見ることができず。
帰りの電車に乗りながら、「ブルーシート」の最後の問を思い出していた。
”あなたは人間ですか”
茨木北部という場所に来るのはほぼ初めてだった。
昔から日本にはこんな風景がたくさんあったのだろうということ。
そして失われていくものもあるのだろうということ。
また玉川村に行くかといったらたぶん、行かないだろうこと。
特別でも特殊なことでもなくたくさんの人が生きていること。
わたしはニンゲンという移動する点のひとつに過ぎなくて、終わっていくものだということ。
飴屋さんの作品はいつも、その冷たさにも似て、でも柔らかいフラットな視線や、時間が止まるような緊張感に打たれる。
「何処からの手紙」は「わたしのすがた」のような「作られた作品」を求めてしまう気持ちからはやや物足りないけれど、でもやはり見てよかった。
10万時間
を費やせば、それなりのものができるようになるのだという。
うろ覚えだが西尾維新は対談で、「10万時間を費やしたら、次はもう20万時間を費やすしかなくなる」と話していた。
どうして何かができるようになりたい、と願ってしまうのだろう。
そうやって取り返しの付かない方向に足を踏み込んで、自らを呪ってしまう。(そうせざるを得なかったいくつもの要因)
そうしたらもう進むしかない。どれだけ虚しくても。本当のところ、絶対にやらないとどうしようもないことなんてほぼ無いのだ。それでもやるか、やらないか、それだけ。どちらが比較的心地よい場面が多いか、そんな程度でしかない。
世界にはなんにもない。
だから、かくしかない。
ディン・Q・レ展
ベトナム戦争がいやにフューチャーされている、と思ったけれど、まだ40年前程度のことなわけで、当たり前なのかもしれない。
自分自身を掘り下げたりするんじゃなく、「ベトナム人としての歴史」をすごく全面に出して(西洋中心主義等と)戦っている作品が多くてわかりやすい。
ベトナムで見た戦争美術館の様子も蘇る。だけど、戦争美術館の展示のほうが数倍ショッキングだった。
アートは「風化させない」ためにも使えるけれど、「受取可能なもの」にパッケージ化することにも使えるんじゃないだろうか。良くも悪くも。
気になったのは、最後の方にあった御用美術家と、それをはみ出して活動した抽象美術家を対比するような展示。まったくディンQレ自身の創作衝動とか、いかにも旧来の「芸術家」的なものは見えてこなかったのだけれど、作家としての彼はどういう人なのだろう。
■
サイ・トゥオンブリー@原美術館、特に期待していなかったけれどとても良かった。
抽象表現主義、であったり、神話の名前がいちいちついていたり、なんとなく底深そうな体裁はもとより、カラー作品の色の組み合わせがとてもきれい。
単純な感想だけれど、見ていて心地いい。「部屋に飾りたい」と思わせる現代美術、ってそれはそれでいいと思う。
Die Werkuebersicht: Gemaelde, Zeichnungen, Skulpturen, Photographien
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